クリスマスを飾る
そして、クリスマスが終わって今日、飾りは全て外しました。
今度は、お正月の飾り付けです。
若い頃は、そうしたイベントごとに飾り付けをすることが、何より面倒だし、無意味だと思っていました。
しかし、結婚した妻が、そういった飾りつけを当然のようにする家庭に育ったものだから、同じように飾り付けをすることが、我が家での慣習となってしまい、内心面倒くさいなと思いながらも、もう何年も続けることになってしまいました。
面倒くさいな、と思うのは、今もです。
ただ、そうは思いつつも、そうして飾り付けをすることで、ああ、もうそんな季節か、そういや去年はこうだったな…と思い返す機会を持つことも悪くないなと思うようにはなってきました。
面倒だからといって、何一つ特別なことはせず、ただ淡々と変わらない日々を過ごしていると、気が付けばもう何十年も経っていたということになってしまいそうで怖いのです。
今年のクリスマスも、ささやかながら満喫できました。
また来年。
それは突然やってくる
また一人、才能あふれる芸能人の方が亡くなりました。
偶然、数週間前の旅番組に出演されていたのを見て、お元気そうね、と思っていたのですが。
状況からして自殺ではないかと言われているのですが、自殺なんて、と思っている人からすれば、なんて馬鹿なことを、と思うのかもしれません。
私も数年前であれば、そう思ったことでしょう。
しかし、それは突然やってきました。
ちょうど一年前になりますが、新しく配属された先の上司とウマが合わず、怒られてばかりの毎日を過ごしていた私は、その日も打ち合わせでもこっぴどく怒られていました。
それでも何とか乗り切って、ほっと一安心した帰り道、特急電車が通過するのをベンチに座って待っていると、突然、ベンチから立ち上がり、線路に飛び込む、というイメージが頭の中に浮かんできたのです。
思わず、いやいやいやと自分自身に突っ込みを入れたのですが、すぐにまたベンチから立ち上がり、線路に飛び込むというイメージが繰り返し浮かんできたのです。
もう何度も何度も。
そうやって何度も何度も線路に飛び込むイメージを繰り返されると、最初は笑ってやり過ごしても、だんだんその気になってきて、これはもう飛び込まなきゃいけないんじゃないかという気持ちになってきたのです。
ちょうど、若い芸人さんが、高い飛び込み台に連れていかれて、さあ飛び込みなさいと言われているような感覚です。
嫌なんだけど、行かなきゃいけない。
行かないと、みんなに迷惑をかけることになってしまう。
さあ、行け。
行け。
3つ数えたら、さあ行くぞ。
私は、そこでかろうじて我に返り、慌てて立ち上がって線路から距離を置くことで、通過する特急電車をやり過ごすことができました。
翌日、私は異動を申し出て、悔しい、悲しい思いもいろいろしましたが、自分で何とかできるうちに自分で対処することができて本当に良かったと思うと同時に、自分で何とかできなくなることもあるんだな、ということを知りました。
あのまま、目を閉じて座っていたら、おそらくダメだっただろうな、と今でも思います。
お酒を飲んでいたら、もっと疲れていたら。
おそらくダメだっただろうなと思います。
つらい時は案外平気なものです。
むしろ危ないのは、それを乗り越えた後。
死のうという衝動は、思い止まるとか、冷静に考えるとか、理性とは全く違うルートで、突然、ダイレクトにやってきます。
皆さんも、他人事とは思わず、ご注意を。
レジはいらない。
セルフレジに慣れてしまってからというもの、もうセルフレジでしか精算しないようになってしまいました。
入ったコンビニにセルフレジがないと買わずに出て、セルフレジのあるコンビニを探すレベルです。
自分一人でできることのために、わざわざ人の手を煩わせるのが、まあ心苦しいのです。
コンビニでは、カゴも使わずに持てるぐらいのものしか買わないですし、支払いも電子マネーなので、慣れれば数十秒で精算完了です。
もはや、自宅の冷蔵庫と同等です。
スッと来て、パッと取って、ピッと払って、サッと出る、みたいな。
なんて便利なんだろう!
ただ、最近感じるのは、レジにお店の人が立って待ち構えているにも関わらず、素通りしてセルフレジに向かう時の後ろめたさ。
自分が、そのお店の人だったら、きっとこう思うだろう。
俺って必要なのかしら、と。
違う違うそうじゃない。
もっと他に必要とされることがあるんだよ、と声を大にして言いたい。
そうして、日々、時代の流れを感じながら、私は今日もセルフレジへと向かうのです。
優しさはいらない。
年も押し迫ってきて、開催された女芸人のコンテスト。
観客の反応からしても、この2組のどちらが優勝か、と思われた中、受けも今一つだった3組目がなんと優勝。
差があり過ぎて、3組目に1票も入らない事態を避けようとした心優しい審査員が自分だけでもと投票した結果、3票集まって、優勝したように思えます。
もちろん、悪気があってやったことではないので、責めるのも何か違うと思うけれども、果たして、その優しさが本当に必要だったのかどうか。
真剣勝負だったからこそ、ダメなものはダメと切り捨てるべきだったのではないか。
むしろ、そうすることこそが優しさだったのでは?
驚愕の結果にモヤモヤはしたものの、良い学びを得たな、と思うひと時でした。
理想にこだわらない
ブログでもやってみようかな、と思って始めてみたは良いものの、そこまで長く続くこともなく、パッタリ止まってしまったのだけれど、だからって、潔くやめなきゃいけないなんて、誰が言った?
それこそ、読者がいるわけでもないし、書き続けなきゃいけないなんて義理もない。
下手くそだろうと、続かなかろうと、誰かが困るわけでもない。
書きたい時に書く、それでいいじゃない。
気付いたらやる。
皿を洗うにしても、トイレットペーバーを換えるにしても、気付いたらやることにしました。
少し前までは、何をやるにしても面倒なことであればあるほど、妻や子どもがやってくれることを期待して待っていることも多々ありました。
しかし、やらないんですね。妻も子どもも。
その間、誰かやらないかな、やってくれないかな、俺がやらなきゃいかんのか、等々、周りの様子を伺っていなくてはいけません。
ある日、それこそが面倒だと思うようになったのです。
そうして、モヤモヤとしながら過ごす時間がもう無駄でしかない。
モヤモヤしているくらいなら、1分でも1秒でも早くやってしまった方がスッキリやりたいことをやり始められます。
気付いたら何も言わず、躊躇なく、スパッとやり遂げるようにすることで、私自身もそうですし、家族全員がスッキリ過ごせる時間が増えたような気がします。
いつも俺ばっかり、と思う瞬間もないことはないですが、それも一瞬。
ウジウジひきずらず、次にやろうとしていたことに、いち早く取りかかれるようになりました。
年を重ねて、多少は前向きな大人になれた気がします。
※品質や効果を保証するわけではありませんので、ご留意ください。
立って靴下を履く
太めだった頃は、靴下を履こうにも、手が足まで届かないという程ではないですが、まあちょっとしんどいということもありました。
その後、運動をするようになって痩せて、立ったまま靴下を履けるようになってからは、意識して立って履くようにしています。
思わず座って履こうとしてしまうこともありますが、そんな時は敢えて立ちます。
特に誰かが言っていたわけでもないですが、そうして片足で立つ、ということを敢えてやることで、体幹が鍛えられるのではないかと思ったのです。
実際、それで本当に体幹が鍛えられるかどうかは、本当に定かではありません。
ただ、やらないよりはやった方が良いだろうと思いますし、靴下を履く時、脱ぐ時は必ず立ってやる、と決めると、履く時と脱ぐ時とで、必ず2回、片足でバランスを取る時間がやってきます。
よし、これから片足で立って、体幹を鍛えるぞ、と心に決める必要もなく、です。
何度も言いますが、効果がどこまであるのかは全くわかりません。
しかし、そうして靴下を履いたり脱いだりするごとに、私の体幹も鍛えられているような気がして、しめしめ、と思うのです。
むしろ、このちょっとやってやった感の方が良い効果を生み出しているような、そんな気がしてなりません。
まあ、いいじゃないですか。
※品質や効果を保証するわけではありませんので、ご留意ください。